
春の
午後、
やわらかな光が街の輪郭を少しだけ曖昧にする頃、サクラソウは静かに咲いていた。華やかな花々の影に隠れるように、それでも確かな存在感を持って、小さな花びらを幾重にも重ねている。その姿は、声を張り上げることなく心に届く、静かな言葉のようだった。

大坂愛弓は、その前で足を止めた。忙しさに追われ、季節の移ろいすら見過ごしていた日々の中で、ふと時間が緩やかに流れ出す。サクラソウの花言葉は「初恋」。その言葉が、胸の奥にそっと触れた瞬間、遠い記憶がゆっくりとほどけていく。
まだ若く、何も持たなかった頃。彼女は一人の男性と、この花を並んで見つめていた。稲垣信夫。多くを語る人ではなかったが、その沈黙には温度があり、言葉以上の優しさがあった。隣にいるだけで満たされる、不思議な時間。触れ合うこともなく、それでも確かに存在した想い。
風がそっと吹き抜け、サクラソウが揺れる。その揺らぎは、過去と今を優しく結びつけるようだった。愛弓は小さく息をつき、わずかに微笑む。あの頃の自分も、今の自分も、どこかで繋がっていると感じたからだ。
手を伸ばせば届く距離にある花。それでも彼女は触れない。大切なものほど、触れずにそっと心にしまっておく方が、美しくあり続けると知っているから。
振り返ると、サクラソウは変わらずそこに咲いていた。控えめで、けれど揺るぎなく。まるで、あの日の初恋が今も静かに息づいているかのように。
